
『エディントンへようこそ』のラスト、あのベッドのシーンはどういう意味だろうと感じた方も多いのではないでしょうか。
実はその違和感は、ある映画と比較すると、とても分かりやすくなるんじゃないかと思うんですよね。
やまねです😊
映画『エディントンへようこそ』をようやく観ることができました✨
なぜ楽しみにしていたかというとアリ・アスター監督の作品であることに加え、現代社会を痛切に描き出しているという評判があったので、これは観るしかないなと思っていたんですよね。
で、ようやくこの映画を観ることができ、その時に思い出したのが96年公開のコーエン兄弟の映画で、87年のノースダコタの田舎町を舞台にした『ファーゴ』。
全然違う話ではあるんだけど、どちらの話も映画のラストの方で家のベッドに入る場面が出てくるという共通点があるんですね。
そして、『エディントンへようこそ』のラストのベッドのシーンは一体何だったんだろうという謎も、『ファーゴ』と比較することで紐解くことができるんじゃないかなと思っています。

映画『エディントンへようこそ』はこんな話
エディントンを取り巻く状況
舞台はニューメキシコ州の「エディントン」(エディントンは架空の町だそうです)。
2020年のコロナのパンデミックの最中、町はロックダウンされていて、外出の場合にはマスクの着用が徹底されている。
ところが、実際には、まだこの町に感染者は出ていなかったんです。
でも、みんな不安に怯えて過剰なまでにマスクをすることにこだわっているから、マスクをしていない人に対する住民の圧力は凄まじい。
マスクなしで、バーに入ったら強制的に排除しようとするし、食料品店でも入店を拒絶。
そして、その風潮を作り出した大元とも言えるのが、州のロックダウンに従う市長のテッドです。
テッドは、表向きはマスクをしてロックダウンに従っているような素振りをしています。
でも、市民から見えない場所では、会合もするしマスクもしなかったり。
本音としては、まだ町の中にコロナ感染者が出ていなかったことから、ロックダウンやマスクが必要だと思っていないわけなんですね。
でも、自分の立場上、その政策が正しいと信じているふりをしている。

保安官ジョーが立ち上がる!
そんな実態に、嫌気がさした保安官ジョー。
彼は喘息もあって、マスクをしていません。
そして、本来、人は誰かを排除しようとするのではなくて、助け合うべきだろうと言って、排除されようとする市民に手を差し伸べる。
ついには自分が町を変えようと市長選に立候補することにします。
一方、保安官としてのジョーには、愛妻家の顔もあり、妻のルイーズのことをいつも気遣っています。
仕事から帰ると妻と一緒のベッドに入って、他愛ない会話をするという日常を送っていました。
ところが、この立候補をきっかけにその日常が脆くも崩れ去っていく。
ジョーは世直しのために立ち上がったはずが、人々はネットの切り取りを通してしか物事を見ようとしないから、ジョーの声はネットの中の様々な発信にかき消されてしまいます。
ここで明らかになったのは、家庭内から町全体まで、人々はお互い目の前にいても全く違う世界観の中で生きていて、コミュニケーションの歯車はとうの昔から噛み合っていなかったということ。
この狂った歯車が暴走し出して、想像もしなかったような結末に向かっていくというのが、『エディントンへようこそ』の大雑把なあらすじです。
⚠️以下より、ネタバレがありますので、ご注意ください!

保安官ジョーの生き様とネットの切り取り
保安官ジョーは、当初はすごく真っ当なことを言っていたし、町の人たちのことを気に掛けていました。
だから、マスクを着けていないという理由で排除されていた町の人を助けるんですね。
そしたら、助けた相手から、一緒に写真を撮って欲しいと頼まれ、ツーショット写真を撮ります。
その後に、以下のコメントとともに、その人がFacebookにその写真をアップするんです。
エディントンでただ1人の 立派な人物 ありがとう
この投稿を見たことが、ジョーの心に火を点けてしまいます。
その結果、ジョーは市長選への立候補を決意して、今度は自分でネットに立候補の意思を告げる動画をアップします。
こんなことに価値はあるのか
存在もしないウィルスと闘うためにーー
隣人や家族を敵に回すという 代償を払うなんて彼らがいてこそ 地域社会だろ?
家族のように大切だ我々は 誰かの一日を 台無しにすることも
親切にして 心を軽くすることもできる人は互いの心を 思いやるべきだ
俺は立候補する
ところが、そこから、ジョーが期待していたものとは全く異なる波紋が広がっていきます。
なぜなら、ネットでは、様々な人が様々な発信をしていて、各々が異なる情報を見ていて、みんな自分の関心事にしか耳を貸さないんですね。
そして、現実の世界を見る上でも、そのネットの影響によって作り上げられたフィルターを通してしか物を見ないようになっているから、同じ物を見ているはずなのに、全く違う認識が生じてしまう。
さらには、今目の前で起きていることをスマホで撮影して、都合のいいように切り取って、その情報がまた拡散していく。
だから、ジョーの思いは、ハレーションを起こすだけで、全く誰にも届かないんです。

映画『ファーゴ』との共通点と違い
映画の最初の方に、保安官ジョーが自宅に帰って、寝室で妻と一緒にベッドに入るシーンがあります。
実は、その時点で映画『ファーゴ』を思い出しました。
で、ラストのベッドシーンを観て、「なるほど!」という気持ちになったんですよね。
アリ・アスター監督が、映画『ファーゴ』を意識していたかはわからないんですけど、2つの映画の共通点と違いを比較してみると非常に面白いと思ったんです。
コーエン兄弟の名作『ファーゴ』
有名な作品なので、ご存知の方も多いかもしれませんね。
『ファーゴ』は、80年代後半の時代設定の映画なんですが、ノースダコタの田舎町で起きた軽はずみな偽装誘拐が、ボタンの掛け違いが積み重なって複数の殺人事件となっていった様を描いています。
それだけ書くと悲劇のようですが、一連の出来事は、不条理過ぎて喜劇になっている。
計画していた単純な犯罪が、それに関わる人間たちの歯車が全く噛み合っていないことによって、全く別の凄惨な事件へと変貌してしまう。
その事件を解決した警察署長のマージ。
彼女は妊婦さんなんですが、すでに母親の風格があり、地に足がついていて簡単には動じない人物として描かれています。
でも、そんな彼女すら、この事件の不条理を目撃して、自分には全く理解できないと呆然としてしまうんですね。

2つの映画のラストは「ベッド」
どちらの映画も、歯車が合わない中で生じた不条理を描いているんですけれども、ラストが「ベッド」に入った場面で終わるところも共通しています。
ただ、そのベッドでの様子が全く異なるんです!
『ファーゴ』の場合
まず、『ファーゴ』では、事件を解決させた警察署長のマージが帰宅し、旦那さんとベッドで横になってくつろぎ、会話をしています。
旦那さんは売れない絵描きで、その絵が切手に使われるということが決まったことで、2人はささやかな幸せを分かち合います。
そして、少し不安そうな面持ちではありましたが、「私たちは幸せね」と言って終わるんですね。
『ファーゴ』の物語では、外の世界には想像を絶するような不条理の風が吹き荒むけれども、家の中にはまだ心の通じ合う温かな関係が描かれているんですね。
そういう安心できる場所は、この狭いベッドの上だけだというような終わり方なんです。

一方、『エディントンへようこそ』では・・・
『エディントンへようこそ』でも、映画の冒頭の方では、寝室のベッドでは、保安官ジョーと愛する妻ルイーズとの幸せな会話の様子が描かれているんですね。
こちらの場面では、ルイーズが趣味で制作している人形が売れたという話を、ジョーが「すごいじゃないか」と喜んでいたりする微笑ましい会話があります(ただ、こちらの映画では、実はジョーが妻のために手を回して他の人にお金を渡して人形を買わせていたものなんですが・・・)。
ところが、物語のラストでは、『ファーゴ』と異なり、妻ルイーズは保安官ジョーの元から去ってしまっていて、ジョーの隣にはいないんですね。
さらに、ジョー自身も、紆余曲折の末、一命は取り留めたものの、話すことも体を動かすことも何もできない状態になっていて、ベッドに入るのにもクレーンのような機械を使わなければいけないような身体になっています。
そして、ベッドで隣に眠るのは、妻ルイーズではなくて、コロナを機に同居していた陰謀論者の義母の方。
それだけでも、まぁまぁ異様な状況なんですが、更に義母の隣に、自分の介護をしてくれていた介護士の男性が裸で入り込むというクレイジーさ。
(恐らく介護士さんが義母の愛人なんでしょうね。)
だから、『エディントンへようこそ』では、べッドの上までも、心の通じ合えるような関係性は存在せず、狂気が入り込んでいる有様なんです。
ジョーは自分では全く動けない状態ですが、意識はあるようだったので、ジョーの心境を想像すると地獄だろうなと思う一方で、それはそれでうまく行っているようでもあるという不思議なラストでした。

この違いを生んだもの
『ファーゴ』で描かれているように、インターネットやSNSがなかったとしても、人間って本来、歯車が噛み合わないようにできているんだと思います。
一見、同じ人間に見えて、薄い皮膚一枚の下にあるものは、全く別の感覚や感情、価値観だったりする。
だけど、昔は少なくとも、家庭の中や数少ない人間関係の中には、まだお互いの心を思いやり理解し合うことのできる奇跡的な関係もあったりしたんだと思います。
それに対して、インターネットが人々の生活に深く浸透した現代においては、それすら失われてしまうくらいに、アルゴリズムの中で、それぞれが自分の見たい世界の中に閉じこもって生きている。
だから、ベッドの上という最小単位の場所にさえ、心安らげるような関係性は残っていないというのが『エディントンへようこそ』の描いた悪夢なんだと思うんですよね。
ある意味、映画『呪怨』で布団の中に怨霊がいたときのような絶望感、最後の砦となるはずの場所が奪われてしまったような恐ろしさがありますね。

おわりに
映画『エディントンへようこそ』のエンドロールでは、画面のど真ん中にエディントンに建設されたデータセンターの建物がずっと映っているんですよ。
このデータセンターは、映画の冒頭から街に建設される計画があったものなんですよね。
人間関係を徹底的にバラバラなものにしたのはテクノロジーであり、それゆえに様々な不条理が生じて、それぞれの登場人物の迎えた顛末は当初からは想像もつかないようなものになったはず。
それなのに、そのテクノロジーの拠点であるデータセンターの計画だけは、当初の予定通り実行され、揺るぎのないものとしてエディントンの町に根を下ろしている。
そのデータセンターの明るいネオンの様子が、人間の無力さと対照的に感じられて、「あぁ、もうどうしようもないのかもしれないな」ーーそんな諦めにも似た哀愁を感じてしまいました。
そして、「人は互いの心を 思いやるべきだ」と言っていたジョーの行く末が、話すことも動くこともできない肉体の牢獄の中に閉じ込められた姿だという徹底的な救いのなさに、ちょっと爽やかささえ漂う程で、この不思議な魅力こそが、アリ・アスター監督作品だよなと思ったのでした。



