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『劇場版 鬼滅の刃 無限城編 第一章 猗窩座再来』は、アダルトチルドレン(AC)やHSPなど「生きづらさ」を抱える私たちに、何を教えてくれるのか?

やまね
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最新作、観に行ってきました!

ポイント

『劇場版 鬼滅の刃 無限城編 第一章 猗窩座再来』は、なぜこれほどまでに人の心を惹きつけるのか?
アダルトチルドレン(AC)やHSPなど、様々な生きづらさを抱える私たちの心に、なぜ深く刺さるのか?
本記事では、感情との向き合い方によって道が分かれる「2つの生き方」を手がかりに、鬼滅の魅力と人間の在り方について考察していきます。

『劇場版 鬼滅の刃 無限城編 第一章 猗窩座再来』、観てきました✨✨
映画館は平日なのにほぼ満席状態の大盛況。本当はパンフレットも買いたかったけど、売り切れていました🥲

本当にすごい人気ですね。

今回は、この作品の人気の謎に迫るべく、どうしてACでありHSPである私がこの作品に魅了されるのかということを、この作品が私たちに何を教えてくれるのかという観点から探っていきたいと思います。

🗡️2つの生き方の物語👹

鬼滅の刃を通して描かれているのは、鬼になった人達・鬼殺隊になった人達のそれぞれの人生の歩み。
私は、この物語の大きなポイントは、この2つの生き方の違いの対比にあるんじゃないかなと思っています。

2つの生き方:生き方を分けるのは、「人間の弱さ」との向き合い方

2つの生き方は、物語の中では、鬼になるか、鬼と戦うかという選択の違いとして描かれていますが、一体それはどういう生き方の違いなのかということを考えてみたいと思います🤔

結論から先に言うと、それは「人間の弱さ」との向き合い方の違いによって生じる生き方の違いじゃないかなと思うんですよね。

人間というのは、感情があるから心が傷つく弱さがあるし、肉体的にも簡単に傷ついて、やがては死んでしまうという弱いものです。

そういう人間の弱さに直面した時に、その弱さを拒絶し、否定するか、受け入れ肯定するかで生き方が大きく異なってきます。

人間の弱さを否定する場合の生き方

人間の弱さに直面した時、それを否定する生き方というのは、まさに鬼の道を歩む生き方のことですね。

鬼達もそれぞれ、人間であった頃に、人間の弱さに直面し、絶望的な感情を抱いた結果、その感情による苦しみを避けるために、人間の弱さを否定することになった。

だから、鬼舞辻無惨も他の鬼たちも、人間のような弱い生き物ではなくて、鬼となって「永遠に生きよう」「強く完璧な存在になろう」ということを目標に頑張っているわけです。

そして、個人として完璧で完結する存在を目指しているので、自分以外の他者は弱きものとして否定し、他の人間は自分が完璧な存在に近づくための餌食でしかないわけです。

一応、鬼同士の関係については、無惨を頂点とした鬼の組織があるわけだけど、太陽を克服して完全体になるという目的を達成する手段として組織されたもので、その目的を達成するのに役立たなければ無惨に殺されてしまう。だから、仲間が集まった結果として組織になった訳ではないんですね。

人間の弱さを否定して、人間を超越した完全な存在を目指す生き方というのは、常に他者を「自分が完全な存在になるための道具」としてしか考えない生き方になるわけです。

弱さを肯定する場合の生き方

一方、人間の弱さを受け入れて肯定する生き方というのは、鬼殺隊に入って鬼と戦うことを決めた人達の生き方ですね。

この人達は、大切な人の死など人間の弱さに直面した時に、失った苦しみに身を引き裂かれる思いを経験しながらも、自分を含めた人間の弱さと共に生きていこうと決意しています。

そして、人間は弱いものだからこそ守らなきゃいけない、助け合わなきゃいけないという気持ちが働きます。
そういう心の働きがあるから、鬼殺隊の皆んなはお互いの弱さを補い合い、助け合う仲間なわけです。

だから、鬼の組織も鬼殺隊という組織も、組織という点では同じですが、それを組織として結びつけるものが大きく異なります。

また、鬼が個として生きながらえ永遠の命を手に入れようとしているのに対して、鬼殺隊の人たちは子孫や仲間に思いを伝承するという方法で永遠の営みを可能にしているという違いもここから生じてきますよね。

お館様も確か無惨に「永遠というのは人間の思いだよ」的なことを言ってたような記憶があります(不正確ですみません💦)。

感情との向き合い方を決定づけた出会いの偶然性

鬼滅の刃を通して描かれる鬼になった人達・鬼殺隊になった人達のそれぞれの人生の歩み。
実は、結構共通点も多いですよね。

鬼になった人達ばかりが不遇な目にあっているかというとそうではなくて、鬼殺隊になった人達も親がいなかったり、大切な人を失ったりと不幸を背負っていることが描かれています。

中には、鬼になるべくしてなったような人、鬼殺隊になるべくしてなったような人達もいますが、その人達も含めて、鬼になるような人、鬼殺隊になるような人というのは、決定的な違いのようなものがあるのでしょうか。

ここでは、なぜ2つの生き方に道が分かれていくのかを考えてみたいと思います。

出会いという偶然性

鬼殺隊に入った人達も、鬼になった人達も、人生の歩みのパターンがあって、

絶望的な感情を抱かざるを得ない事態に直面する→鬼(無惨とか上弦とか)と出会うORお館様(もしくは、柱)に出会う

という流れですよね。

そして、この時、どちらと出会うかによって、その後の人生が別れていきます。

これを出会いの「偶然」による違いと考えるか、それとも「運命」という決定的な違いと捉えるかは、人によって異なるところかと思いますが、私は「偶然」と考えることが大切なんじゃないかなと思います。

鬼になる人、鬼殺隊に入る人の違いは決定的なものなのか

なぜかというと、鬼になる人、鬼殺隊になる人は運命的に決定づけられていて、その両者は元々全く異なる存在だったと考えてしまうと、炭治郎が度々鬼の気持ちを理解しようとしたり、理解することで鬼を倒すという場面が描かれていることとの説明がつかないんじゃないかと思うからです。

鬼になる人は、たまたま色々な偶然が重なって、今は鬼となって戦っているし、鬼殺隊にいる人も、たまたま偶然が重なって、今は鬼殺隊として戦っている。

そういう感覚が炭治郎にないと、鬼の心を理解しようとする炭治郎の行動はうまれないんじゃないでしょうか。

もしも、炭治郎が鬼になる人間と自分とは決定的に違う存在なんだという感覚で戦っていたのだとしたら、鬼の気持ちなんて理解不可能と最初から諦めてしまって、鬼の気持ちを考えようとはしないでしょうから。
自分とは決定的に違う存在なんだという意識は、分断を生んでしまうんですよね。

炭治郎は、元人間であった鬼も含めて、人間が同じであることをよくわかっている存在として描かれていて、だから他者への優しさや、他者の痛みを自分の痛みのように感じて、人を傷つける者を許さないという気持ちの強いキャラクターでもあるんじゃないかなと思っています。

他者を理解したり、他者に優しくなるためには、自分と他者の違いは「たまたま」によるものだという気持ちが非常に重要なんじゃないでしょうか。

作中に描かれていた猗窩座の人生😭

特に、その「たまたま」に翻弄されたことがよく描かれていたのが、今回メインで登場した猗窩座の人生ではないでしょうか。

猗窩座も、せっかく大切な人達との出会いに恵まれたのに、その後その大切な人達を失ったことの苦しみと復讐心で人間性を失い、そこで無惨と出会って鬼になってしまいます。
でも、結局思い出の中の大切な人達にまた出会って、人間の心を取り戻して消滅していきましたよね。

本当に出会いというのは、人生に不思議な変化をもたらしてくれるものなんだなということを感じました。
「人間万事塞翁が馬」ですね。

一方で、童磨なんかは鬼になるべくして生まれたかのような存在にも感じますが、あれだって童磨がそんな風に生まれようと思って生まれてきた訳ではなく、偶然ああいう境遇や性質に生まれてきたとも言えます。

人間は自分の生まれを選べないし、偶然性の前では完全に無力な存在だと言えます。

👉「たまたま」という考え方に関連する内容の記事です。よかったら読んでみてください。
「親ガチャ」って、本当に不公平?アダルトチルドレンとして考えたこと。

柱や鬼、それぞれが繰り出す技やその強さに、感情との向き合い方が表されている

🌬️感情との向き合い方としての柱の「呼吸」🔥

まず、鬼殺隊の柱たちは、「呼吸」によってそれぞれの技を使えるわけですが、あれって瞑想とかの「呼吸」と一緒ですよね。

瞑想では、呼吸に集中することで、意識を感情の波の外側に置き、心身全体に意識を行き渡らせることで、”今ここ”に集中します。

柱たちの「呼吸」は、そうやって感情に操られることなく、感情を自分のパワーに変えて戦う方法として描かれているのではないかと思いました。

🌲猗窩座との戦いの中で炭治郎が木みたいになってたアレ

そして、猗窩座との戦いの中で、猗窩座の視点から炭治郎が木のような姿になっている描写がありますが、あれは瞑想を極めた人のみが至ることのできる「無我の境地」に炭治郎が辿り着いたという表現なんじゃないかなと思います。

一方で、猗窩座は頭が消滅しても尚存在し続けるという境地に達していますが、あれは自分の人間性を自分の燃え盛る感情で焼き尽くして完全に無となった境地みたいな感じでしょうか。

このシーンでも、似ているけれど、違うという2つの生き方、戦い方の対比が生きてましたね。

👹鬼の「血鬼術」にも感情が人の心や体にどう影響するかが描かれている

一方で、鬼の「血鬼術」の方にも、鬼が鬼となることを決定づけた”感情”の性質と深い結びつきがあるように感じました。

わかりやすかったのが童磨ですね。彼は「共感能力やそれに伴う感情がない」ということで鬼になった背景の持ち主ですが、そういう感情のなさ、冷たさがよく血鬼術に表れていましたね。

感情のなさっていうのは、周囲の人や本人自身に対しても、心を内側から蝕んでいく毒のような働きをするから、彼の技はそのイメージにピッタリだなと思いました。

また、猗窩座が相手が強ければそれに応じて強くなるという性質も、猗窩座の復讐心が鬼になることを決定づけた背景とよく合致しますよね。

復讐心というのは、復讐したいと思う相手の強さに合わせて大きくなるものですから。

そして、黒死牟は、まだ今回は戦っていなかったので、どんな血鬼術を使うのか知らないんですが、彼が鬼になった背景だけは解説動画で見てしまったので、彼が上弦の壱であり、鬼の序列のトップに君臨するのは納得できるなと思いました。

彼は弟への嫉妬から鬼になってしまったようなんですが、弟の中に理想の自分の状態を見ていて、その理想と異なる自分自身をずっと憎み続けてきたんですよね。
本当は弟を憎んでいたんじゃなくて、弟のようになりたかったし、弟になれない自分を憎んでいたんじゃないかなと思います。

そして、自分を憎んでいるという点では、猗窩座と共通していますから、猗窩座に対して親近感みたいなものがあるという描写があったのも納得がいきます。

ただ、猗窩座の場合は、守りたいものを守れなかった結果として自分を憎んでいたのに対して、黒死牟は自分が完璧な存在になれないという自分の生まれそのものを根本から憎んでいたから、より業が深かった。

さらに、心に虚無を抱える童磨よりも、弱い存在である自分を心底憎んでいる黒死牟が強いというのは納得でした。

童磨は心がないから傷つかないし強いけれども、心がないからこそパワーを生み出す源泉もないのに対し、嫉妬の炎は全てを焼き尽くす程のエネルギーを持っていますから。

人間の進歩というのも、人間が弱い存在であったからこそ、その弱さを否定し克服して、完全な強い存在に近づこうとするエネルギーが生み出される面もあると思います。
そう考えると、黒死牟の抱える苦しみには人類の歴史のパワーの源泉とも言える普遍的な苦しみに通じるものがあるのかもしれません。

🌿AC・HSPなど様々な背景により「生きづらさ」を抱える人に、この物語は何を教えてくれるのか

ズバリ、それは「生きづらさ」を抱えて、どう生きるのかという問題意識です。

「生きづらさ」を抱えている私たちの人生の中では、その苦しみという感情の力をどのように使って生きるのかという倫理の問題を問われる局面がたくさんあります。

さすがに、実際の人生の中では、鬼になるか、鬼殺隊に入るかのようなわかりやすい分かれ道はとても少ないですが。

でも、日々、小さな選択の中に、苦しみの果てに自分の弱さを否定して、その結果、鬼達のように他者の人間性をも否定して、自分本位に生きるのか、それとも隊士たちのように人間の弱さを受け入れて仲間と助け合って生きるのかという分かれ道があるんだと思うんですよね。

つまり、私たちは、自分の心の中で、自分の感情に呑み込まれて鬼になるか、それとも自分の感情と向き合って人として生きるのかの戦いをしているんじゃないかと思います。

そして、小さな選択の積み重ねの中で、鬼のような一面、柱のような一面、色々な顔を持っているのが現実の人間の姿ではないかと思うんです。

だから、物語のように、同じ選択をした仲間を見つけるのは難しかったりしますが、それでもお互いの弱さを補い合い、支え合う仲間を見つけて、人間の心を繋いでいけるような生き方を選んでいけたらなと思います。

おわりに

いかがでしたでしょうか?良い物語というのは、色々な見方を楽しめる深みを持っているので、当然ながら「鬼滅」についても他に色々な見方があるんじゃないかなと思います。

今度、漫画(止まらなくなるのが怖くて中々手が出せないですが)や考察の本とかも読んでみようかなと思っていますし、続編もまだありますし、また機会があったら「鬼滅」に関する記事を書いていきたいと思います!
よかったらまた読んでくださいね😊

📚生きづらさを抱えてどう生きるのかという問題に関連した記事

「Slow🌱growth」では、AC・HSPなど様々な事情により「生きづらさ」を抱える人が、どのように生きるのかということをテーマにした記事を色々書いています。
以下に、今回の物語と関連性が高そうなものをご紹介しますので、よかったらチェックしてみてください📝

辛い思い出を抱えている方へ
実家との関係で苦しんでいる方へ(「生きづらさ」をどう形にするのかを3つのパターンとして解説しています。)
親ガチャに外れて苦しんでいる方へ(「たまたま」という考え方と「親ガチャ」の関係)

📝noteでも関連した記事を書いています!

👇この記事には語りきれなかったエピソードをnoteで書いています。
【ブログ未公開の深掘りをnoteで!】AC✖️HSPの私が『鬼滅の刃』に惹かれる訳──『劇場版 鬼滅の刃 無限城編 第一章 猗窩座再来』

👇劇場へ観に行った時の状況などはこちらに詳しく書いています。
【観てきました!】AC✖️HSPの私が、『鬼滅の刃』に惹かれる訳——『劇場版 鬼滅の刃 無限城編 第一章 猗窩座再来』|やまねのゆったり日記

👇観に行くことになった経緯や鬼滅との出会いのエピソードなどを書きました。
AC✖️HSPの私が、「鬼滅の刃」に惹かれる訳——『劇場版 鬼滅の刃 無限城編 第一章 猗窩座再来』を観に行ってきます|やまねのゆったり日記

  • この記事を書いた人

もりのやまね

私は、アダルトチルドレン(AC)当事者で、
HSP(繊細で感受性が強い気質)の傾向があります。

現在は、一児の母ともなり、不器用ながら何とか生きているところ💦

映画やドラマの鑑賞が長年の趣味で、
年とともに弱ってきた身体に鞭打って睡眠時間を削りながら、
胸に突き刺さるような名作を探究し続けています。

このブログ「Slow growth」では、
そんな私が出会った名作と言えるような 映画・ドラマ(ときどき本も)について批評しています。
そして、 同時に、自分の経験や生活実感をもとに
現代社会と人間の「生きづらさ」の構造を考察することを目指しています。

生きづらさっていうのは、ただの苦しみというだけではなくて、
生きる実感をもたらしてくれる 人生の友ともなりうるものであることを、
お伝えできたらいいなと思っています。

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