
このアニメの一味違った考察をしていきたいと思います。
やまねです😊
実は、先日、1週間近く入院しました。
その時に、以前から気になっていた『チ。―地球の運動について―』を一気見したんですよね。
そして、時間がたくさんあったので、更にある本も同時並行で読んでいました。
たまたま同時並行となった二つの作品ですが、内容にシンクロするところがあって、それが奇跡的な体験でした。
そこで、その奇跡的な体験をみなさんにもシェアしていきたいと思います。
『チ。―地球の運動について―』を、「内臓とこころ」の内容を通して観ると”腑に落ちた”
そのある本というのは、解剖学者である三木成夫さんの「内臓とこころ」(河出文庫)です!
この本は、保育の講座の中で、「こころ」とは何かについて、解剖学の知見を出発点として三木先生が語った内容を書籍化したもの。
人間とは何か、生命とは何かということが、解剖学という学問の領域を超えて、まさにアニメの中で語られるような「好奇心」のもとに追求されている伝説的名著なんです。
体壁系と内臓系という二つの器官
三木先生によると、人間を含む動物の身体は、大きく二つのグループに分けられるそうです。
一つは、「体壁系」。
これは、外皮系・神経系・筋肉系で「動物器官」と呼ばれるもので、その代表格が脳に当たります。
動物が「動く」ために必要となってできていった器官ですね。
で、もう一つは、「内臓系」。
こちらは、腸管系・血管系・腎管系で「植物器官」と呼ばれ、その代表格は心臓です。
基本的には、「食と性」に関わる器官です。
植物には内臓系の器官しか備わっていませんが、動物にはこの両方が備わっているわけです。

そして、運動をするように進化したことで、その外側に動物器官(体壁系)が作られた。
体壁系と内臓系の関係🌱
体壁系と内臓系の関係は、「あたま」と「こころ」という形で説明されます。
この二つは、私たちの精神を支える二本の柱といわれていますよね。
「あたま」というのは、判断とか行為といった世界に君臨するのに対して、後者の「こころ」は、感応とか共鳴といった心情の世界を形成する
(『内臓とこころ』/三木成夫/河出文庫)
一言でいえば、あたまは考えるもの、こころは感じるもの、ということです。
体壁系が「あたま」というのは、その代表的な器官が脳であることからもわかりやすいですよね。
そして、「こころ」というのは、脳という体壁系の器官に宿るものではなくて、「こころ」を表す漢字が心臓の「心」であるという「自然発生的な時の重みに耐えてきた事実」が示すように内臓の世界に根を下ろしたものだと三木先生は捉えているんです。
ここの部分は、私の読解力の問題かもしれませんが、非常に直感的な説明であるように感じます。
ただ、「はらわた」に沁みるような納得感があるんですよね。
そして、私たちの日常を振り返ってみると、「目に付きやすい体壁系にばかり注意が注がれ、いわば前端の顔しか見せない内臓系のほうは、ついおろそかにされている」として、頭でっかちになりがちで心が疎かになっていることを指摘されています。

宇宙リズムと内臓系🫀
そして、植物の生態を思い浮かべたときに、植物というのは太陽の高さと歩調を合わせながら、それに合わせて光合成を行い、時期がくれば種を残して命を繋ぐ。
つまり、生態のリズムが宇宙リズムと完全に一致するようにできています。
でも、この植物と宇宙に見られる関係は、動物にもちゃんと備わっているんです。
例えば、生殖器官などがわかりやすいかと思いますが、動物には繁殖期というものがあったりしますよね。
人間においては、だいぶなくなりかけているようですが、例えば生理の周期なんかが残っています。
そして、この宇宙リズムが最も純粋な形で宿るのが植物器官と呼ばれる「内臓系」なんです。
つまり、内臓系に根ざす「こころ」というのは、宇宙のリズムに呼応する感覚であるといえるわけです。

ラファウとノヴァクの対立図式(内臓系VS体壁系)
ここで、ようやく本題のアニメの話に移りたいと思います。
物語は、ラファウから始まる「地動説」を追求することにより宇宙の真理に近づきたいという知のバトンを受け取った人々vs既存の社会秩序を守りたいC教会を代表する異端拷問官としてのノヴァクという構造になっています。
そこで、このラファウvsノヴァクの構図を、先ほどの「内臓とこころ」の図式で整理していきましょう。

ラファウを突き動かしたものの正体
ラファウを突き動かしたものは、何か。以下のセリフを見てみましょう。
「タウマゼイン?」
「ああ それは古代の哲学者曰く知的探究の原始にある驚異
簡単に言い換えると この世の美しさにしびれる肉体のこと
そして その美しさに 近づきたいと願う精神のこと」
『チ。―地球の運動について―』アルベルトとラファウの対話より
これは、まさに宇宙的リズムとの共鳴からくる腹の底から湧き上がってくるような感覚であり、三木先生のいう内臓系に根差した「こころ」で感じることだといえますよね。
そして、これこそが「感動」の正体なんじゃないかと思うんですよね。
さらには、宇宙や真理など未規定なものへ「開かれようとする力」、自分の内側から湧き起こってきた力に突き動かされるものであり、「価値合理的」とも言い換えられるように思います。
アニメの中では、ラファウやラファウの石箱を引き継いだ人たちは皆、空を見上げながら、最後の瞬間を迎える描写がなされていることも、宇宙的リズムとの共鳴の中で、開かれた世界、全体へ回帰していく姿を象徴的に表しているように感じられます。

ノヴァクの行動原理は何か?
一方で、ラファウやラファウの「感動」を受け継いだ者たちを追う側にあった異端審問官ノヴァクについては、どうでしょうか。
ノヴァクの行動は、地動説はC教の支持する天動説を否定するものだという「理解」に基づいているものであり、自分の社会的な役割を果たそうとする行為であり、まさに脳で考えたことに従った「体壁系」の行動原理に基づくものだったと言えます。
この体壁系の行動原理は、人間が作り出した言葉、宗教、社会などの既に規定されているものへ「閉ざされようとする力」、特定の目的を達成するために効果的な手段を選択するものであり、「目的合理的」だとも言い換えられますね。
つまり、「心が動くから行動する(価値合理)」のか、「目的のために動く(目的合理)」のか。
この違いが、ラファウとノヴァクの生き方の分岐点なんですね。

さらには、既存のものを守ろうとする力とも言い換えられるのかもしれません。
この2者の対立の構図
物語は、この2つの「内臓系VS体壁系」、または「未規定へ開かれようとする力VS規定されたものに閉ざされようとする力」、「価値合理VS目的合理」という対立図式が継続する形で展開されていき、アルベルトの登場する最終章で別の形へと展開されていきます。
それでは、次の章で、物語の展開から、「知の営みのダイナミズム」を本作がどう描いているのかを見ていくことにしましょう!
物語の展開から、知の営みのダイナミズムが解き明かされる
ラファウから始まる感動の感染と異端審問官ノヴァクとの戦い
ラファウ少年は、最初は要領よく合理的に生きようとするタイプとして登場します。
実は、体壁系の「あたま」で判断して生きようとする人間だったんですね。
ところが、異端者として捕まっていたフベルトと出会い、「地動説」を知ったことで、その生き方が180度変わってしまいます。
宇宙の美しさに「こころ」が震え、「感動」したことで、「こころ」の目が開かれた。
そうすると、その開かれた「こころ」の目で見たものを、いくら「あたま」で考えたら愚かなことだと分かっていても、なかったことにはできなくなってしまう。
その結果、異端審問で嘘がつけずに「賢い選択」を捨てて、「地動説」の資料を守るために自ら毒を飲んで死んでしまいます。
多分 感動は 寿命の長さより大切なものだと思う
『チ。―地球の運動について―』自ら毒を飲んだ後のラファウのセリフ
だから この場は 僕の命に代えてでも この感動を生き残らせる
その「感動」は、ラファウの言葉通りに生き残り、オクジー・バデーニ・ヨレンタ・ドゥラカなど人々へ受け継がれていきます。
ここで、注目すべきなのは、この感動を受け継いだのが、「地動説」を理解するための知識がある人ばかりではないということです。
天体に興味があるかどうかに関わらず、「感動」はある種の感染力を持って、人を変えていく。
上述のように、内臓系の「こころ」の働きというのは、感応、共鳴するものであり、感動は理屈で説得されるかどうかに関わらず、波長で感染るんですね。
だから、既存の社会の価値観の中に守られて生きてきた人間の内側に眠っていた内臓系の感覚は、「感動」の波長に次々と共鳴して、感染し、
バトンが渡され、リレーのようにつながっていきます。
一方で、ノヴァクの思いは、部下は登場しますが受け継がれることなく、終始ノヴァクが主体となっています。
体壁系の「あたま」の働きは、1人の「あたま」の中で完結するもので、それは共鳴や共感とは異なり、感染のようなことは起こらない。
そのことがノヴァクの継承者がいないことに表れているのかなと思います。
体壁系の「あたま」の働きは、人間が作り出した言葉、宗教、社会などが共有されることで広がるものであり、人と人の間にそういった概念や規範などが挟まることで伝播されものだから、感染しないんですね(例えば、内臓系の感染と異なり、体壁系の場合は、同じ知識を持つ人同士の間でしか伝播が起こらない)。
そして、作中では、ノヴァクの命が尽きるまで、この「内臓系VS体壁系」の構図が続いていくんですね。

ノヴァクの死に際、ラファウの幻との対話
異端審問官ノヴァクは、ラファウの感動の継承者の最後の登場人物であるドゥルカと刺し違えて、炎の中で最後の時を迎えます。
そして、その時、目の前に現れたラファウの幻と対話をするというシーンがあります。
そこで、ノヴァクはこんな告白をします。
地動説が異端じゃないと言われて 気付いたよ
『チ。―地球の運動について―』ノヴァクのセリフ
まったく予想外だったが 私は・・・ 私は この物語の悪役だったんだ
でも、それに対して、ラファウは「確かに僕らは 敵対した関係でしたね」と認めながらも、こう返します。
今 たまたま ここに生きた全員は たとえ殺し合うほど憎んでも 同じ時代を作った仲間な気がする
『チ。―地球の運動について―』ノヴァクがみた幻としてのラファウのセリフ
ここに至るまで繰り広げられてきた「内臓系VS体壁系」の構図は、実は敵対しているように見えて、「同じ時代を作ってきた仲間」なのかもしれないということが示されて、物語は次の章へと進んでいきます。
ラファウからアルベルトへの接続
観る人を驚かせた異色の最終章
最終章は、今までの「15世紀(前期)P王国某所」という設定から、時間と場所が明確になった「1468年 ポーランド王国 都市部」へと移ります。
さらに、この章に登場するアルベルトは、今までの登場人物と異なり、史実に出てくる人物です。
ポーランドの天文学者・数学者で、コペルニクスの師と言われています。
だから、この章は、今までの完全なフィクションとしての物語から、歴史的な物語への接続点となっています。
ここで、多くの人が驚かれたと思うんですが(私もその1人です笑)、毒の飲んで命を落としたはずのラファウが青年の姿になって、再登場するんですね。
なぜ、ここでラファウが登場するのかというと、ラファウはフィクションとしての物語の中でバトンリレーされていた「感動」の原点となった人だからじゃないかと思うんですよね。
そして、今度は、その「感動」の原点であり、「こころ」に従って動くラファウが違う側面を見せてくるんです。
この章におけるラファウの役割の反転
それは、青年ラファウが自分の信念のためにアルベルトの父を殺してしまう形で描かれます。
この章においても、ラファウはアルベルトに影響を与えた人物ではあるんですけど、それは今までのような「感動の感染」という形ではなく、アルベルトに学問は危険で愚かなものだからやるべきではないと思わせてしまっているんです。
むしろ、この世界では、悪役が反転していて、ラファウの側になっているような世界線なんですね。
つまり、今まで物語の中で、善なる側のように描かれてきた内臓系の「こころ」、開かれに向かう力もまた暴力となって、誰かに「血」を流させてしまう可能性を持っていたんですね。
一方で、アルベルトの父も学問に熱心ではあるけど、ラファウとは異なり、直感的な「こころ」にしたがって知的な追求をするのではなく、現世においてどう役に立つのかという視点から、その直感を疑うことで学問と向き合っていた人物として、ラファウと対照的な存在、体壁系の存在として描かれています。
そこで、アルベルトは、内臓系のラファウも体壁系の父も、どちらの道も破滅につながるのではないかと学問そのものに絶望してしまっていた。
アルベルトが出した結論
でも、紆余曲折を経て、再び空を仰ぎ見て、指で星座をなぞった時に、アルベルトは、こう考える。
「ーー僕らは足りない だから補い合える」
内臓系のラファウと体壁系の父、開かれに向かう力と閉ざされに向かう力、その双方が「知」の営みには必要なのだと考えるようになる。
疑いながら進んで
『チ。―地球の運動について―』アルベルトのセリフ
信じながら戻って
美しさに きらめきに 迫り詰めてみせます
長い物語の中で、ラファウとノヴァクという2つの人物に代表されるように、一見対立しているように見えていた内臓系の「開かれに向かう力」と体壁系の「閉ざされに向かう力」は、実はコインの裏表みたいな関係であり、その双方が知を構成しているということに気がつくんです。
まさに、死の間際にノヴァクが見たラファウの幻が言っていたように、その2つは同じものを作り出す仲間だったんですね。
この二つの相反する力のうねりや迷い、葛藤の中に倫理的な真理の探究の道が見出され、知の営みのダイナミズムが生じるあり様を、物語を通して描き、観る人にそのダイナミズムを体感させてくれたのが、この作品だったのではないかと思います。

その循環によって「チ。」が成り立つというイメージをウロボロスの蛇でイメージしてみました!
おわりに
「内臓とこころ」の文庫版解説を、養老孟司さんが担当していて、こんなことを書かれていました。
情理ともに兼ね備えることはなかなかむずかしい。
(『内臓とこころ』/三木成夫/河出文庫)文庫版解説・養老孟司さんの言葉
理に落ちてはつまらないし、情が先走っても困る。
漱石が書いたとおりで、知に働けば角が立ち、情に棹させば流される。
自然科学は理性一本ということになっている。
でもじつは裏にさまざまな場があって、そこに人間の品格の問題が隠れているように思う。
このバランス感覚が素晴らしいのが三木先生だったと書かれていて、まさに三木先生は、アルベルトが目指したような科学者だったのかなと思いました。
そして、このバランス感覚って、科学者だけではなく、私たちが生きる上でも非常に大切なものではないかと思います。
アルベルトが言うように、「疑いながら進んで 信じながら戻って」迷いの中に生きるべき道を見つけていく。
内臓系の「こころ」で感じること、体壁系の「あたま」で考えること、双方のバランスが大切ですよね。
三木先生の本を読むことで、アニメの理解が進んだし、このアニメを観ることで本のメッセージが何を伝えようとしているのかがまさに腑に落ちたという素晴らしい体験でした。
その素晴らしい体験を、この記事を通して少しでもシェアすることができていたら、何よりです!
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました😄



