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映画『でっちあげ』は、どうしようもない社会で起きた奇跡の話

やまね
やまね

綾野剛さんが出てるあの映画について語りたいと思います!

やまねです😊

つい最近、Netflixで映画『でっちあげ』(監督:三池崇史、出演:綾野剛・柴崎コウ・他)を観ました。

で、その前にアマプラで『アフター・ザ・ハント』という映画も観ており、2つの映画の共通点と相違点が興味深いなと感じたんですよね。

なので、その違いを参照しながら、映画『でっちあげ』をこんなふうに観ると現代社会を見通すきっかけになるんじゃないかという考えについて書いていきたいと思います。

⚠️ネタバレがあるので、ご注意ください!


『でっちあげ』はこんな映画

まず、『でっちあげ』は、福岡市で起きた実際の事件を元に書かれたルポルタージュ『でっちあげ 福岡「殺人教師」事件の真相』という本を原作としています。

綾野剛演じる小学校の教師、薮下誠一が、柴崎コウ演じる教え子の母親である氷室律子から、律子の息子に対する体罰があったと告発されてしまいます。

薮下先生には身に覚えのない告発内容。

しかし、当初、学校側は穏便に事を済ませようとして、事実をしっかりと確認もせずに、とりあえず薮下先生に謝罪するように促す。

ところが、謝罪しただけでは事態は収拾せず、謝罪をしたのだから告発した内容は真実だったんだということを前提として、事態はどんどん大きくなっていく。

体罰の告発はマスコミを通じて全国的なバッシングが起こり、告発者側が550人の弁護団を結成した裁判にまで発展し、事態がエスカレートしていくという話です。

小学校で起きた告発事件。

『でっちあげ』を最初に見た時の印象

ここからネタバレになりますが、この映画では、事態がどんどん悪化していき、薮下先生は追い詰められ、次第に自暴自棄になっていきます。

ところが、そこに「救世主」が現れていくんですね。

まず、最初の救世主は家族。

奥さんは、追い詰められて、「これ以上迷惑をかけられないから離婚してくれ」と言った薮下先生に対して、自分も子どももあなたの味方だから一緒に戦おうと言ってくれます。

次に、弁護士。

裁判になった時点で、マスコミに大きく取り沙汰され、「殺人教師」のレッテルを貼られて社会的にバッシングを受けていた上、相手方の弁護団が550人もいる状況の中、薮下先生はなかなか事件を引き受けてくれる弁護士を見つけられずにいました。

しかし、そこに報道を見て告発内容に真実味に欠けるところがあると見抜いた1人の弁護士が現れます。

更には、裁判で体罰がなかったという証言をしてくれる人を探した結果、当初は誰も協力してくれる人が現れず絶望的な状況が続きます。

でも、諦めずに裁判で戦いを続ける中で、薮下先生の教え子の保護者から連絡があり、氷室サイドの主張する事実を足元から覆すような情報提供を受けます。
この保護者の方が、迷いながらも薮下先生に連絡をくれたのは、子どもが先生にはお世話になったので、先生を助けてほしいと言っているからという理由でした。

こうして、氷室律子の告発から始まった一連の騒動が、氷室律子の虚構の自己像に基づくものだったことが明らかになり、社会的な注目を浴びた薮下対氷室の裁判では請求棄却となり薮下先生側の勝訴という形で決着するんですね。

メディアの暴走

役者さんの怪演から描かれたものが悪夢のような印象を受けた

最初に映画を見た時の印象としては、氷室律子演じる柴崎コウさんの怪演もあり、狂気を秘めた異常な保護者と無責任な学校の態度によって、先生の日常が破壊されてしまうという物語に見えてしまったんですよね。

そこに、良識のある存在が現れて、何とか正義が取り戻されて、平和な日常が回復したんだという展開かと思いました。

そうすると、この物語は、先生がたまたまとんでもないモンスターペアレンツに出会ってしまった特殊な事例を描いたものだということになってしまいます。

それはそれで本当に恐ろしい話だとも言えますが、そうだとすると観客はある意味他人事として安心して観ていられるポジションにいられます。

でも、『アフター・ザ・ハント』という別の映画と比較して考えた時、もしかするとこれはもっとおそろしいことを描いた作品なんじゃないかなと思ったんです。

これは裁判によって正義が取り戻されたという話なんだろうか?

『でっちあげ』と『アフター・ザ・ハント』の共通点と違い

『アフター・ザ・ハント』概要

ここで、2025年の『アフター・ザ・ハント』(監督:ルカ・グァダニーノ)という映画を取り上げたいと思います。

この映画について、ざっくり説明すると、舞台は名門大学で、主役はジュリア・ロバーツ演じる教授のアルマ。

アルマは、自分の教え子マギーからアルマの同僚であり親友のハンクによる性的暴行があったという告発を受けます。

でも、ハンクの言い分によると、マギーが提出した論文が盗用されたものだったことを学校側に気が付かれないうちに本人に注意しようと思ってマギーのアパートに寄ったのだと言います。

そして、アルマ自身もマギーの論文盗用の件には気づいており、さらには性的暴行があったという物的証拠がなく、ハンクの言い分が真実である可能性が高いと感じています。

しかし、マギーは教え子という立場である上、黒人女性であり同性愛者であるというマイノリティーとしての背景もありました。
だから、その彼女の言い分を明確な証拠もなく否定することは、社会的な文脈を考えると極めて難しい。

そんな状況の中、アルマはハンクを全面的に擁護するという態度を取らず、大学側はハンクをクビにして、マギーの論文等用の件については目をつぶるという形で問題の解決を図ります。

そんな中で、それぞれの思いがぶつかり、アルマの過去も明らかになっていく中で物語が展開していくというのが、この映画です。

こちらの映画の舞台は名門大学。

『でっちあげ』との共通点と違い

どちらの映画も、教員と教え子という非対称な力関係の中において、体罰や性的暴行などの行為があったという告発を巡って物語が展開していきます。

そして、どちらの映画においても、よくよく状況を見れば告発者の側に問題があることがわかりそうな状況にありながら、教員と教え子という非対称な力関係があるという社会的な文脈を重視するあまりに、状況を丁寧に見て真実を見極めるということは軽視され、真実が蚊帳の外にある状態で問題解決がなされようとしていく。

そうして、告発された側は、社会的に抹殺されそうになるという点が共通しています。

ただ、その先が、それぞれの映画で異なり、『でっちあげ』では救世主が現れて真実が明らかになることで救われるけれども、『アフター・ザ・ハント』では、真実はずっと藪の中にあるままで、それぞれの登場人物がその先の人生を歩んでいくという話になっているんですよね。

現代社会における教師と教え子の関係の難しさ。

『アフター・ザ・ハント』との比較の中で見えてきた『でっちあげ』の本当の恐怖

『アフター・ザ・ハント』では、その結末が示しているように、今の社会では、真実というのは簡単に蚊帳の外に置かれてしまい、社会的な文脈によって物事が左右されるんだということが明確に描かれています。

そして、そんな社会の中では、真実か嘘か、善か悪かということは軽視され、その分、自分にとって損か得かということに重きが置かれます。

その結果、自分の損得のためなら手段を選ばないという人も増え、映画に登場する告発者のような存在も当然出てくるわけです。

そうだとすると、『でっちあげ』を観た時に最初に抱いた「日常が壊され、その後に回復する物語」という印象は、実態と逆なんじゃないかなと思えてきたんですよね。

つまり、告発者が現れる前から、自分の日常を取り囲む社会はもともと壊れていたんじゃないかなということです。

それが告発によって明らかになったものの、薮下先生の周りに良識ある人が現れて、薮下先生は奇跡的に救われた。

薮下先生自体が良識のある存在だったからこそ、救おうとする人たちが少数ながら集まった点は偶然ではないと思いますが、ここで真実が明らかになったのは奇跡的だなと思います。

そして、たまたま現れたモンスターのような存在に人生が壊されそうになったという話ではなく、もともと自分たちが生きている社会自体が壊れていて、何らかのきっかけで真実とは無関係に社会によって人が抹殺されそうになるのだとしたら、観ている私達にとっても薮下先生の恐怖は全く他人事ではないわけです。

私たちが毎日の生活を送っている社会は、本当に安心・安全なものなのか?

幸せな食卓の中で薮下先生が呟いた裁判に対する違和感

『でっちあげ』の映画の最後の方に、裁判のあとで、薮下先生と家族、弁護士が集まって食事を囲んでお祝いをする場面が描かれます。

あれだけの社会的なバッシングに晒されながら、共に戦ってくれた人たちがいるというのは本当にすごいことだし、こういう人たちの存在そのものが奇跡のように感じられてしまいます。

その食卓での会話の中で、薮下先生が「裁判って何なんですかね」と呟く場面があるんですね。

というのも、薮下先生に対する請求は棄却され、相手方からの控訴もなかったので結審したのですが、市に対する裁判は控訴審で続いていて、市は事実関係をもともと争っていなかったこともあって、一審二審共に体罰があったことを前提に賠償請求が認められてしまうんですね。

裁判というのは、真実を追求するという建前で行われるゲーム的な側面があって、時に真実や正義とは無関係に答えを出してしまうことがある。

司法というのは社会の機能の中枢にあるものですから、ここに社会の本質がよく現れているわけです。

これだけの困難を乗り越えて一緒に食卓を囲む人間関係が存在することの奇跡。

おわりに

映画の元となった事件自体は2003年に起きたことであり、もう20年以上前の話ですが、現代に起きた事件だとしたら、もしかすると結末は違っていて、『アフター・ザ・ハント』のようになっていたかもしれないと思ってしまいます。

一方で、薮下先生のお子さんが先生になられたこと、10年後に薮下先生に対する市の処分が取り消されたことなどを考えると、社会がどんなに壊れていようとも、真実を見失わず良識を持って生きる強い人間が存在するんだなと希望が持てますよね。

ただ、たまたまかもしれませんが、ここで取り上げた2つの映画がどちらも教育機関を舞台にしていて、教えるという行為自体が、良識ある社会を前提にしなければ難しいものなのかもしれないなと思いました。

社会がどんなに恐ろしい場所であっても、真実を見失わずに、良識を持って、薮下先生のように生きることができたらなと思いました。
そして、そういう生き方を身をもって示してくれる人こそ、真の意味での「先生」なのかもしれません。


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  • この記事を書いた人

もりのやまね

私は、アダルトチルドレン(AC)当事者で、
HSP(繊細で感受性が強い気質)の傾向があります。

現在は、一児の母ともなり、不器用ながら何とか生きているところ💦

映画やドラマの鑑賞が長年の趣味で、
年とともに弱ってきた身体に鞭打って睡眠時間を削りながら、
胸に突き刺さるような名作を探究し続けています。

このブログ「Slow growth」では、
そんな私が出会った名作と言えるような 映画・ドラマ(ときどき本も)について批評しています。
そして、 同時に、自分の経験や生活実感をもとに
現代社会と人間の「生きづらさ」の構造を考察することを目指しています。

生きづらさっていうのは、ただの苦しみというだけではなくて、
生きる実感をもたらしてくれる 人生の友ともなりうるものであることを、
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