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「モンスター:エド・ゲインの物語」は”孤独が狂気を生む”という既成概念をぶち壊す|AC✖️HSPの私のドラマ考察

やまね
やまね

正直、途中で観るのをやめたくなるグロテスクさでした。

こんにちは。やまねです😊

久しぶりにブログを書いています。
「お休みの後の話題がいきなりこれか!」という感じですが、今回は最近公開されたNetflix作品「モンスター:エド・ゲインの物語」について書いていきたいと思います。

正直、人におすすめしたい作品かと言うと、あんまりおすすめはできないです💦

なぜなら、本当に気分が悪くなるから。
ホラー作品は全然平気な私も、正直途中で観るのをやめたくなるグロテスクさでした😱

ただ、そのグロテスクさ自体にもメッセージ性があるし、物語の構造自体が現代社会を描き出すような作品になっていて、非常に見応えがありました!!

だから、人にはおすすめはしないけど、観ることで得たものも大きかったなと思います。

問題作と言われる本作について、丁寧に考察していきますので、かなりの長文になりますが、よかったら読んでみてくださいね!

なお、なるべく気分が悪くなるような表現は最低限にして、ホラー作品が苦手な方にも、この作品の持つ重要なメッセージをお届けしたいと思います😀

※考察に必要な範囲でネタバレがあるので、ネタバレは避けたいという場合は、ぜひ本編を鑑賞後にお読みください!

久しぶりに、ドラマを観て、怖いというか気分が悪くなりました・・・。

エド・ゲインといえば、これ!(この部分は、ちょっと気分が悪くなるかもしれないので、苦手な人は読み飛ばしてください!)

「モンスター」シリーズは実話をモデルにした物語

まず、「モンスター」というのは、実在する凶悪犯をモデルにした物語を展開するアンソロジー形式のドラマで、ライアン・マーフィー(Ryan Murphy)&イアン・ブレナン(Ian Brennan)が手がけてるNetflixオリジナルの人気シリーズです。

第一弾は、ジェフリー・ダーマーの物語、第二弾はメネンデス兄弟の物語で、いずれも実在する人物がモデルとなっています。

だから、第三弾となる今回の『モンスター:エド・ゲインの物語』も実話ベース。
主人公のエド・ゲインは、実際に1950年代に存在した有名な凶悪犯なんです。

エド・ゲインといえば・・・

なるべく気分が悪くなるようなことは書かないようにするつもりなんですが、このことはどうしても触れないと本作の本質について言及できないので、この記事内の最初にして最後の気分が悪くなるような話題です。

エド・ゲインが何をした人なのかを書いていきたいと思います。

彼は、ホラー作品界隈では、非常に有名な人物で、色んな作品のモデルになっているんですね。
それは、彼がやったことというのが、非常に猟奇的であり、見たり聞いたりした人の心を抉るようなものだったからんですね。

具体的に何をしたかというと、それは人間の皮膚を使って衣装や仮面を作ったり、皮膚や骨で家具を作ったりしていたんです💦
一体、なんてことするんだ…。

そして、そのために墓場荒らしをして死体を損壊し、更には2件の殺人まで起こしています。

この行為が象徴するもの

ただ、この行為がなぜ色んな作品のモデルになるようなインパクトを持っていたかというと、それが極めて猟奇的だからという理由だけに留まらないんですね。

それは、この行為に及んだエド・ゲインの心理状態、この行為が象徴するもののインパクトが大きかったんじゃないかと思います。

その心理というのは、特に人の皮膚で衣装や仮面を作っていたという部分によく表れていると思うんです。

それは、自分を他者という衣で覆い尽くすことで他者と同化し、自分の中の孤独、そして孤独から生まれた空虚さを埋め合わせ、封じ込めようとする心の働き。

そして、彼の犯行自体は稀に見るような猟奇性を感じさせるものですが、こういう心理自体は割と一般的なものとも言えるんです。

人は「空虚であること」に耐えられないとき、しばしば“中身”を探すのではなく、“かたち”だけでごまかしてしまうもの。
例えば、「本質的なつながり」がなくても“恋人”というラベルにすがったり、「自信」がなくても“ブランド”で自分を飾ったりすることは、日常的に見られる光景ですよね。

そんな誰にでもあるような心理が狂気にまで達したときに、これだけの凶行にまで及んでしまうという点が、たくさんのホラー作品のインスピレーションとなったのではないでしょうか。

空虚さの埋め合わせのイメージ。
私たちも、自分の孤独や弱さ、空虚さを他の何かで埋め合わせようとすることがしばしばありますよね。

「エド・ゲインの狂気を生み出したのは孤独である」という既成概念をぶち壊す!

従来の「エド・ゲイン」像

ホラー界隈では非常に有名なエド・ゲイン。
今まで彼には、ある種の固定的なイメージがありました。

それは、「母の支配とそれによる孤独」を抱えた狂気のモンスターであるというイメージ。

だから、大抵の場合、彼をモデルにしたキャラクター像というのは、挙動不審で内向的だったり、社交性に欠ける人物で、孤独だったと描かれることが多いんです。

本作の「エド・ゲイン」は、挙動不審だけど割と社交家

まず、今までと違うなと思わせるのが、エド・ゲイン役を演じたのが、チャーリー・ハナムであるという点です。

チャーリー・ハナムは、筋肉質で高身長、整った顔立ちの役者さんなんですよね。

だから、この役者さんが起用されている時点で、挙動不審で内向的なタイプとは一味違う感じがします。

そして、ドラマが始まって、まずビックリしたのが、彼にアデラインという恋人がいたという設定。
「えっ、すごく孤独なタイプかと思ってたのに、恋人いたんだっけ?!」と驚かされました。

更には、話し方が独特だったり、どこか挙動不審ではあるんだけど、色んな人に自分から話しかけたりして割と積極的で社交的に振る舞っている。

これは、従来の孤独なエド・ゲイン像をかなり揺るがすものだなと衝撃を受けました。

恋人アデラインとは何者なのか・・・

実は、アデラインという人物は史実には存在しません。

でも、彼女の存在は、「狂気が他者とのつながりの中で育まれる」という本作の主題を象徴する“装置”として、本作のテーマに欠かせない重要な役割を果たしています。

そして、アデラインは、死のイメージに取り憑かれた女性というキャラクター。
2人は共通の秘密の趣味によって心を通わせ、お互いを唯一の理解者として、婚約もするし、共犯関係のようにもなって行きます。

さらに、重要なポイントとしては、彼女がエド・ゲインにナチスの残虐な行為を記録した白黒写真、それをモデルにしたコミックスなどを提供することで、空虚なエド・ゲインの心にある種のインスピレーションを与え、狂気の源泉となるイメージを媒介させた存在だというところです。

エド・ゲインに影響を与えた人物がいた!?作中のイルゼ・コッホとクリスティン・ジョーゲンセンの意味

アデラインがエド・ゲインに提供したコミックスや写真は、主にイルゼ・コッホとクリスティン・ジョーゲンセンという2人の人物のものでした。

そして、この2人は、エド・ゲインと同じ1950年代前後に生きた実在の人物です。

イルゼ・コッホは、ナチス親衛隊将校の妻で、強制収容所の囚人を虐待し、上述のエド・ゲインと同じような残虐行為をしたと言われている人物。

一方、クリスティン・ジョーゲンセンは、1952年に性別適合手術を受けたことが世界で初めて大きく報道され、アメリカ社会に「性とは何か」という衝撃を与えたトランスジェンダーの先駆的存在とも言える人物です。

ただし、2人は共に実在の人物ではありますが、実際にエド・ゲインがこの2人から直接影響を受けたという記録はありません。

この2人の人物の登場は、「他者の行動、イメージ、はたまた狂気が、メディア(この場合は白黒写真やコミックス)を通じて社会へと広がり、人々の心を刺激し、想像力を膨らませる」という構図を示すためのものであると言えます。

そして、エド・ゲインもその影響を受けた1人であり、彼の底知れない空虚さが、2人の人物から与えられたイメージを狂気の世界へと膨らませて行きます。

つまり、エド・ゲインの狂気は、彼の孤独が生み出したいうよりも、他者から与えられたインスピレーションによって生成されたという描かれ方なんですね。

エド・ゲインの狂気を作り出したもの

  • 恋人アデラインと猟奇的な行為や死体愛好の趣味を共有する親密なやり取り
  • ナチス及びイルゼ・コッホの狂気から得たインスピレーション(白黒写真やコミックスなどのメディアを通して影響を受ける)
  • 当時のインフルエンサー的存在であるクリスティン・ジョーゲンセンへの憧れのイメージ(マガジンの写真、白黒映画の中のニュース(?)などのメディアを通して影響を受ける)

→これらが、孤独な彼の空っぽな心の中に流れ込み、狂気の世界が生成された。

だから、本作では、エド・ゲインの狂気が、孤独から生まれたものだという既成概念を覆し、他者との接触や影響、人とのつながりの中から狂気を生みだしたという新しいタイプのエド・ゲイン像を提示しているといえます。

つながりの中でイメージが広がっていく様子。
時にそれは想像力を暴走させることもある。これって、今のSNS時代を思わせる構図かも。

そして、本作の見どころは、この“他者との接触によって生まれる狂気”という構図が、エド・ゲイン個人の物語を超えて、時代そのものの病理へと拡張されていく様子がありありと描かれているところ。

その中で、その狂気を媒介し、伝播したのが”映画”なんですね。

そこで、次の章では、エド・ゲインの狂気のイメージが、映画というメディアを通して、どのように時間を超えて、人々の心の隙間に入り込み人を変容させていったのかという点について考えていきたいと思います。


エド・ゲインを発信源とする狂気のイメージが時代を超えて伝染し、人々を変えていく ― 映画史の中の「欲望と狂気」

本作では、エド・ゲインの犯行が描かれると同時に、彼をモチーフにした映画の制作現場や、その映画が公開された当時の社会の様子なども描かれていきます。

更には、エド・ゲインの自伝的パートのはずの場面に、むしろ映画の有名なワンシーンのようなイメージが混ざり込んでいたりもするんです(例えば、エド・ゲインが被害者を襲う場面が、「サイコ」の有名なシャワーシーンのような演出になっているなど)。

物語の構成を大きく分けて整理すると、以下の3つのパートに分類できます。

ドラマを構成する3つのパート

  • エド・ゲインの史実として描かれているメインの物語パート
  • エド・ゲインにインスピレーションを受けて作られた映画の製作過程や映画の有名なシーンの再現、その映画の影響を受けた社会の様子を描いたパート
  • 史実と映画の再現イメージの両方が入り混じったようなパート

※本作では、この3つのパートが非常に入り組んだ形で構成されている。

そこで、以下、映画史のパートについて見ていきたいと思います。

エド・ゲインの狂気のイメージがどのように映画の中で変化していったか

上述の通り、本作では、エド・ゲインは、ナチスの凶行を切り撮った白黒写真、イルゼをモデルにしたコミックスなどを読むことで、インスピレーションを得て、自分の狂気の世界を完成させていきました。
そして、エド・ゲインが起こした事件が、今度は映画の世界へインスピレーションを与えることになり、映画を観た人々の間にも広がっていきます。

まさに、狂気のバトンが渡されていく感じ。そして、人々の心の隙間、空っぽの部分に、その狂気のイメージが流れ込み、新たな狂気を呼び覚ましていくんですね。

ドラマの中では、以下の流れで、狂気のイメージが、ヨーロッパ大陸のナチスから始まり、エド・ゲインを経由して、写真や映画などのメディアを通じて、時代を超えて伝播されていく様子が描かれていました。

狂気の伝播

ナチスおよびイルゼ・コッホの狂気
→ナチスの凶行を切り撮った白黒写真・イルゼをモデルにしたコミック
→アデライン→エド・ゲイン
→映画「サイコ」
→映画「テキサス・チェーンソー」
→映画「羊たちの沈黙」

「サイコ」ってこんな映画だったんだ!

最初に、エド・ゲインの狂気をモデルにして、そのイメージを映画化をしたのが、ヒッチコック。
あの有名な「サイコ」のノーマン・ベイツですね。

彼は、人々が自分の空虚さを埋めるために、狂気を渇望していることを見抜いて、この狂気を映画化することにしました。

Our audience has found a new monster.
That monster is us.

我々の観客は新たなモンスターを見つけた
それは 私たち自身だ

「モンスター:エド・ゲインの物語」より。ヒッチコックのセリフ

「サイコ」以前のハリウッド映画は、安全な娯楽映画であることが当然のものであり、「人間の闇」「死」「性」をむき出しにスクリーンへ持ち込むなんてことは、その当時はあり得ないことだったようです。

ですから、今の私たちから見ると、「サイコ」は刺激の控えめな古典ホラーに見えるけど、当時の映画文化からすると、まさに常識の破壊でした。

そんな常識を破壊するような映画だったので、公開した当初は、観客たちが恐れ慄き、気絶する人、嘔吐する人、阿鼻叫喚の騒ぎとなったようです。

これは、ヒッチコックの「サイコ」が映画の世界のパンドラの箱を開けてしまったと言っても過言ではない・・・。

しかし、映画公開からしばらくすると、人々はもっと過激なもの、死と性の欲動を掻き立てるものを求めるようになっていきます。
「サイコ」が作り出したイメージを目の当たりにすることで、観客が以前の観客とは異質のものに変わってしまったんですね。

その結果、観客のニーズも変わってしまい、ヒッチコック自身が自分が作りたいものを作れるなくなるという顛末も、ドラマの中で描かれていました。
ヒッチコックの想像を遥かに超えて、「サイコ」の狂気を目撃してしまった観客達は変容してしまったということなのかもしれません。

そこから、さらに過激なもの、恐ろしいものが求められて、後の世代に「テキサス・チェーンソー」のレザーフェイスや「羊たちの沈黙」のバッファロービルが生み出されていきます。

この狂気の伝染は、まるでウィルスのように形を変えながら、今に至るまで時代を超えて、社会全体へと広がっていくんです。

全員集合の図。
時代を超えて、狂気のイメージが人々の心の隙間に巣食う感じ。
AIに可愛めに作ってもらったんだけど、全員並んでいるとやっぱり怖い。

現実と虚構の境界が消えた世界 ― 物語の構造そのものがメッセージ

ここまで書きましたが、実はこのドラマは終盤にどんでん返しがあるんですね。

まず、エド・ゲインの犯行が明るみに出た後、法的には責任能力がないということで投獄を免れ、精神病院に収容されることになります。

そして、その病院で、医師に「統合失調症」であると診断されるんですね。
「統合失調症」と診断された(当時は「精神分裂病」と呼ばれていました)点は、史実とも一致しています。

ドラマの中で、医師は、エド・ゲインに「統合失調症」のことを、こんなふうに説明していました。

「内面と外界の境界があいまいになるんだ
君の右脳と左脳は1つの思考を共有できない(中略)
君の場合は自分の心の声が他人からの声に聞こえる」

「僕の心は2つに割れているの?」

「粉々に砕けたんだ
誰かが床に落とした鏡のようにね
今まで見たり聞いたり想像したりしたものが破片となって無秩序に反射し
現実と幻想の区別がつかない」

「モンスター:エド・ゲインの物語」より。医師とエド・ゲインの対話の中のセリフ

そうすると、物語の中の史実のはずのパートは、基本エド・ゲインの視点で描かれていましたから、そのパートに出てきた設定や描写が、現実なのか幻想として描かれていたのかがわからないということになってしまうわけです。

そして、死期が近づいたエド・ゲインの見る幻想と幻想の合間のシーンに、かつての恋人アデラインが再登場。
編集と演出の妙技により、アデラインの存在すら、もしかすると彼の作り出した虚構だったのかもしれないということが示唆されます。

アデラインは、上述の通り、エド・ゲインに狂気のインスピレーションを与える媒介となった存在でした。

だから、その存在が虚構だったのかもしれないとすると、彼は従来のイメージ通り、孤独が作り出したモンスターなのかもしれないことになる。
一方、もしも彼女がこの物語上は存在したということであるならば、人とのつながりによって生まれたモンスターだったかもしれないということになるわけです。

ですから、このドラマの構造上、従来の孤独なモンスターなのか、つながりによって生まれたモンスターなのかということが曖昧になっており、それ自体が現実と虚構の区別がつかない「統合失調症」的なものとして提示されているわけです。

つまり、作品全体が一つの“精神構造”としてデザインされていると言えるでしょう。

Yes「Owner of a Lonely heart」
この曲に合わせて、エド・ゲインと彼に影響を受けた凶悪犯達、精神病棟の看護師や医師が踊るミュージカルのようなシーンがあるんですが、
孤独な心の持ち主たちが皆んなで楽しげに踊る様子は、コミカルな描写でした。
恐怖と笑いは紙一重。

実話ベースのドラマ制作をする上での倫理的な問題をギリギリ回避?

また、何が現実で何が虚構かわからないという設定は、実話をベースにしているドラマにもかかわらず、実話を無視した設定を盛り込みまくったストーリーであることを、最低限、倫理的に許される範疇に収めるという意味もあるんじゃないかと思います。

そうすることで、観た人がこの物語全部が真実に基づくものだと思ってしまうことを防げますよね。

ただ、これによって本当に全てが許されるのかは、非常に難しい部分もある。
ちゃんと最後まで観ないとその設定に気が付かないままになるし、最後まで観ても読み取れない人もいるし、そもそも虚構として描かれていたとしても、当事者にとっては、この描かれ方自体が受け入れられない可能性も極めて高いですよね。

一応、70年くらい昔の話なので、時間が経過している分、当事者との摩擦が生じる可能性は少し低くなるのかもしれませんが。
でも、やっぱりこれでいいんだろうかと考えてしまいます。


社会的統合失調の時代へ ― 「うつ」の時代の先にあるもの

直接的には描かれていないんですが、本作は、まさにSNSによって人々の思考がダイレクトにつながる現代を映しだした物語であるといえます。

今まで、現代は『うつ病の時代』と呼ばれてきました。
それは、資本主義のもとで、個人が“交換可能な部品”のように扱われ、存在の意味や価値を見失いやすくなったことで、人は自己否定感と無力感に囚われ、心が“内側に沈む”傾向が強まったことによるもの。
そして、実際にうつ病を発症していない場合にも、「生きづらさ」としてたくさんの人の心を苦しめてきました。

でも、このドラマを観ていると、もしかすると時代はその先へと進もうとしているのかなとも思います。

SNSによって変容した社会、そしてその社会の中で変容する個人

アメリカでも、日本でも、政治的な意思決定の場面などを見ていると、最近は人々の思考が完全に分断され、話し合いすらままならないような状況に陥っていますよね。

以前は、主義主張は違えど、ある程度同じ事実を前提としてたので、対話によって歩み寄ることができていた。

でも、今は人々が何を事実と捉えるかということ自体が全然違っていて、共有できるものが何もなく、社会全体が先ほどのドラマのセリフのように「君の右脳と左脳は1つの思考を共有できない」状態に陥り、分断されてしまっているようです。

その背景にあるのが、孤独によって空虚さを抱えた人間同士の思考が、SNSなどを通じてダイレクトにつながり合うことで、現実も虚構も等価なものとして受け入れられるような共通感覚が生み出されていることにあるんじゃないかと思うんですよね。

こうした現象が広がる現代社会は、まるで社会全体が統合失調症のような状態に陥っていると言え、そのことを「社会的統合失調」と呼ぶ人もいるようです。
(医学的な診断としての「統合失調症」とは異なる比喩としての概念です。)

SNSの過剰なつながりによって、自己と他者の境界が崩壊し、SNS、更にはVRなどの影響もあって、現実と虚構の境界が極めて曖昧だという状態は、個人の問題から、時代の構造そのものへと変わりつつあるような気がします。

そう考えると、現代は「孤立して沈む時代(=うつ)」から「つながりすぎて分裂する時代(=統合失調)」へと移行してきているといえるのではないでしょうか。

同じものを見ていても認識が全然違ったり、そもそも見ているものが違っていたり。
ある程度、同じ事実を共有できないと対話が成立しないし、話し合いができないと民主主義社会って成立しなくなってしまいますよね。
そういう意味では、民主主義社会全体が病を抱えていて、手当が必要な状態になっているのかも・・・。

おわりに:「現実と虚構の境界が消えるとき」

本作は、何故こんなにキモいのかという謎を解く

時代とともにより刺激を求めるようになった観客たちに呼応して、その渇望を満たそうと映画は進化してきました。

今回の作品も、その流れに位置付けられるものとして、前作を超えるような過激さ、狂気を提供するということを使命のようにしていた部分があったんじゃないかなと思います。
だからこそ、あの想像を絶する気持ち悪さ・・・。

そして、より刺激的なものを提供することで、今の私たちがどれだけ昔の素朴な観客達の感性から変容してしまった存在であるのかと言う事実を突き付けるような意図もあるのかもしれません。

本作の目指すのはココ!

ナチスおよびイルゼ・コッホの狂気
→ナチスの凶行を切り撮った白黒写真・イルゼをモデルにしたコミック
→アデライン
→エド・ゲイン
→映画「サイコ」
→映画「テキサス・チェーンソー」
→映画「羊たちの沈黙」
「モンスター:エド・ゲインの物語」

正直、私は「羊たちの沈黙」くらいの恐怖レベルで限界。
ただ、今回は、本作の過激な映像表現に、すっかり気持ち悪くなってしまったのですが、作中で「サイコ」の観客が変容していったように、数年後には私自身「もっと過激な恐怖を!」となっている可能性もなくはないわけで、本当に恐ろしい限りです。

印象的なセリフ

印象的だったのは、トランスジェンダーの先駆的存在であるクリスティン・ジョーゲンセンとエド・ゲインの対話シーンです(正確には、物語上そのシーンはエド・ゲインの幻想ということになっているので、本当は自分の内なる声との対話なんですが)。

そこで、エド・ゲインはクリスティン・ジョーゲンセンから、「私たちは全く似てないわ」と言われてしまします。

トランスジェンダーとしてのクリスティンは、内側から湧き起こる自己イメージの表現、表出として女性の外観を創り出した。
それに対し、エド・ゲインは、自分の内側の空っぽさ、空虚さを埋め合わせをしようとして、女性の外観をまとっているんですよね。

だから、両者には共通する点があったとしても、その根源的な部分では正反対の性質を持っているんです。
(結局、このシーンはエド・ゲインの幻想だったという設定なので、物語上、本人がその違いを無意識レベルでは自覚していたということなんでしょうね。)

その対話シーンの最後にエド・ゲインが言ったセリフが印象的でした。

I just feel like I'm a puzzle, and none of the pieces fit.

まるで僕はパズルだ
どのピースもはまらない

「モンスター:エド・ゲインの物語」より。

エド・ゲインの物語において、現実と虚構の境界が消えた世界の中で唯一確かだったもの

バラバラのピースのパズルとして深い孤独を抱え、底知れない空虚さの中で、現実と虚構の境界を彷徨っていたエド・ゲイン。

ただ、彼の物語の中で、唯一確かなものとして描かれているものがあります。

それは、「Only a mother could love you」と口癖のように言う母との静かな時間と、エド・ゲインの幻影が映画や文化の中で語り継がれ続けてきたという事実。

現実と虚構の境界が曖昧になる世界、「つながりすぎて分裂する時代(=統合失調)」においては、「孤独」と「共有された狂気のイメージ」だけが確かなものとして残るんですね。

荒野の真ん中で、ただ一人チェーンソーを振り回しながら踊り続けるエド・ゲインの姿――それは、まさにその象徴のように見えてきます。

現実と虚構が無秩序に散乱した荒涼とした世界に残されたのが、孤独を紛らわすように踊り続ける不確かな狂気の幻影だけであるという事実。
それこそが、どんなグロテスクな描写よりも深い恐怖を、観る人の心に刻んだのではないでしょうか。

怖い内容に嫌気がさしてきた方のために、だいぶ可愛くしてみました。
これだったら、楽しそう。

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この他にも、AC✖️HSPの視点から様々な作品について考察する記事を書いているので、よかったら読んでみてください。

👇noteでも書いています。

Netflix『モンスター:エド・ゲインの物語』|怪物はどうやって生まれたのか?|AC✖️HSPの私の考察【前章】

  • この記事を書いた人

もりのやまね

私は、アダルトチルドレン(AC)当事者で、
HSP(繊細で感受性が強い気質)の傾向があります。

現在は、一児の母ともなり、不器用ながら何とか生きているところ💦

映画やドラマの鑑賞が長年の趣味で、
年とともに弱ってきた身体に鞭打って睡眠時間を削りながら、
胸に突き刺さるような名作を探究し続けています。

このブログ「Slow growth」では、
そんな私が出会った名作と言えるような 映画・ドラマ(ときどき本も)について批評しています。
そして、 同時に、自分の経験や生活実感をもとに
現代社会と人間の「生きづらさ」の構造を考察することを目指しています。

生きづらさっていうのは、ただの苦しみというだけではなくて、
生きる実感をもたらしてくれる 人生の友ともなりうるものであることを、
お伝えできたらいいなと思っています。

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