
自分の心の問題、環境問題、現代の社会問題も、
全て一つにつながっていたのかも!!
やまねです😊
映画館で、『私がビーバーになる時』を観てきました🦫🦫🪵🪵
子どもと一緒に楽しもうと思って行ったんですが、大笑いして感動して楽しめるというのに留まらず、心に残る素晴らしい映画でした。
人が生きる上で大切なことは何か、特に今の時代に生きる人にとって大きな課題となっていることを乗り越えるために、必要なことは何かを教えてくれる物語だなと感じたんですよね。
そこで、今回はこの映画を観て、心に残ったものは何だったのかということについて、書いていきたいと思います。

映画『私がビーバーになる時』はこんな話(物語の導入部分だけご紹介)
メイベルとおばあちゃん
メイベルは、子ども時代から、生き物が大好き。
度々、学校内で飼育されている生き物をこっそり外に逃がそうとしては捕まり、大人たちから大目玉をくらっていました。
自分の気持ちを誰にもわかってもらえずに、怒りを抱えるメイベル。
そんな時に、いつも寄り添ってくれたのが、おばあちゃんでした。
おばあちゃんはメイベルと一緒に、家の近くにある小さな池のほとりの大きな石の上に腰掛けます。
そして、池の周囲の自然に静かに身を預けながら、「つながりを感じれば、怒りは鎮っていく」ということを教えてくれるんですね。
その言葉が心の支えとなり、それからメイベルは、おばあちゃんと池の周りの自然と共に、大切な子ども時代を過ごして成長していきました。

小さな池の危機
そこから、月日は立って、おばあちゃんは他界し、メイベルは大学生になっています。
街の開発も随分と進んでいて、高速道路の建設計画が遂行中。
おばあちゃんと一緒に過ごした小さな池も、存続の危機にさらされていました。
そのため、メイベルは、大学の授業もそっちのけで、池の開発を阻止しようとあらゆる手を尽くしています。
そんな折、市長のジェリーが「池には保護すべき生き物がいないから計画を遂行しても問題ない」と発言していることに気づいたメイベル。
確かに、子どもの頃はあんなに生き物で溢れていた池だったのに、今は生き物が全くいない・・・。
そこで、高速道路の建設計画を見直してもらうためにも、生き物を池に呼び戻さなくてはと奔走します。
その過程で、メイベルの専攻する学科の教授が、動物型のロボットに意識を転送する装置を発明していたことがわかり・・・。
メイベルは、その装置を使って、ビーバーになりすまして、動物界に潜入。
果たして、ビーバーとなったメイベルは、生き物たちを池に呼び戻し、小さな池を守ることができるのかというお話です。

⚠️以下より多少のネタバレがありますので、ご注意ください!!
おばあちゃんの言葉の意味
おばあちゃんがメイベルに教えたこと、「つながりを感じれば怒りは鎮まっていく」というメッセージが、この映画の核になっているんじゃないかと思うんですよね。
おばあちゃんの言葉と「池のルール」、それから心の問題
「池のルール」とは
メイベルがビーバーになりすまして、動物の世界に入ったところで、動物たちから「池のルール」というのを教えられます。
ルールは、この3つ。
①皆んなと知り合え。名前を知っている相手には怒れない。
②食べたいときは食べろ。
③私たちは皆んな一緒。例え誰だろうと助けを必要としている相手の面倒をみる。
映画『私がビーバーになる時』 池のルール
このルールって、矛盾しているんですよね。
それぞれの名前を知っている関係で、お互いの面倒を見て大切にしあう関係を築いているはずなのに、いざ食べたいとなった時には相手を食べてしまう。
でも、動物たちはこのルールを受け入れています。
だから、自分が食べられそうになったら、それに対して必要以上に争わない。
これって、何でなのかなと思ったときに、おばあちゃんが言っていたことがヒントになると思うんですよ。
それは、「つながり」を感じているということ。池のルールで言うと③ですね。
私たち生き物は、一個の存在でありながら、つながりがあっていて、全体として一つでもある。
食う食われるの関係は、その全体のつながりを形成するルールなんですね。
そうだとすれば、自分が食う側にまわって生き残ることも大切ですが、自分が食われる側にまわることで全体を成すことも同じように大切。
だから、矛盾しているかもしれないけれども、一人一人名前を持つ個として存在しながらも、同時に皆んな一緒で「つながり」のある者同士でもあって、食うことも食われることも許し合える関係が成立するんですね。
心の問題
そもそも、「怒り」って、何かというと個としての存在が脅かされた時に、その事態を切り抜けるために戦闘モードに切り替わることで生じる感情なんじゃないかと思うんですよね。
だから、「池のルール」でいうと①の部分に関係する感情なのかなと思います。
自分という個人の存在を守ろうという本能的な働きで”怒る”。
それ自体は、とても自然なものですよね。
一方で、おばあちゃんの言っていた「つながり」を感じることは、それとは逆のもので、「池のルール」でいうと③に関係する感覚。
そうすると、自分の存在を脅かしていたものすら、同じ全体を構成するものでしかないと感じることができる。
だから、許せるようになるんじゃないかなと思います。
怒りは大切だけれども、自分を守るために必要な感情です。
でも、それだけでは、個人としての「自分」だけに囚われ、孤立していきます。
生き物は、つながりの中でしか生きていけない存在です。
そうだとすれば、孤立というのは結局、個の存在を弱体化させていきます。
「つながり」を感じることは、その孤立状態から人の心を救い出してくれるんですよね。

おばあちゃんの言葉と環境問題
そして、環境問題というのも、人間が自分たちの存在にしか意識が向いていないことから、生じているのかなと思いました。
本作は、メイベルが小さな池を高速道路の開発から守ろうとする物語なので、環境問題をテーマにしていることは非常にわかりやすい。
人間は、「池のルール」でいうと①に関係する個人としての生存、人類という固有種の生存にこだわるあまり、③の皆んな一緒という「つながり」を忘れがちなんですよね。
だから、「池のルール」②の食う食われるの関係も、いまいち納得がいかず、自分たちは常に食う側にあって然るべしと思っている。
そういう意識が、生態系全体のバランスを破壊して、環境問題を生み出しているのだと気付かされました。

おばあちゃんの言葉と社会の分断
さらには、この「つながり」を感じるという言葉は、社会の分断にも関わるものであることが描かれていると思うんですよね。
メイベルは、池を守りたいという気持ちから、池の周囲の自然環境、そこに生きる動物たちに対しては”つながり”を感じているんだけれども、池を潰して高速道路を建設しようとする側の人間、特に市長ジェリーに対しては怒りを感じていて、そこにも”つながり”があるはずだということを忘れていたんですね。
だから、メイベルの訴えは、動物界の評議会をあらぬ方向に動かしてしまい、評議会は市長のジェリーを抹殺しようとしてしまう🦈
そこで、過ちに気付いたメイベルは、何とか評議会の暴走を止めようと奔走していきます。
その中で、メイベルとジェリーは、互いの”つながり”を感じられるようになっていく。
人間は、人間同士の関係性においても、「池のルール」①に偏りがちで、つい③を忘れてしまいがちなんですね。
だから、自分と違う考え方、価値観、立場の相手に対して、皆んな一緒で一つの全体を構成する仲間だということを忘れ、そこに分断が生じて対話が不可能になってしまう。
現代社会の最大の問題の一つと言える「社会の分断」についても、結局、環境の問題や心の問題と通ずる問題が根底にあるのではないでしょうか。

おわりに〜「ビーバーになる」ことの意味〜
ビーバーになってみる、何かになりすますというのは、つながりを取り戻すための手段なんですよね。
「相手の身になって考える」をまさに具現化した感じ。
怒りに囚われる苦しさも、環境問題も、社会の分断の問題も、「相手の身になって考える」ことで、その相手とのつながりを取り戻すことで、変えていける部分があるんじゃないかと思うんです。
私たちが個として存在するのは、全体があるからのものだし、私たちは個でもあるけど全体でもある。
そんな感覚を取り戻すことができれば、私たち人類の行く先を変えていくこともできるかもしれません。
ただ、難しいのは、この映画のように、小さな池のため、池の周りの仲間のためというのと違って、人間の集団や人間を取り巻く環境など、全体として捉えるべき対象が大き過ぎるという点。
だから、なかなか全体に対する想像力が及ばないんですよね。
まずは、メイベルのように、大切な場所、大切な仲間を一人一人が見つけていくことが、心や環境、社会の問題解決の鍵になってくるのかもしれません。
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